「 豊田市少林寺拳法協会 設立20周年記念式典 山下咲雄氏 講演 」 2013. 9.29.
【 苦しい時こそ、ファイトを燃やせ! 】
愛知高上道院の山下です。
先ほどから立派なものをいただきまして、恐縮しています。
今日は、皆の前へ出て何か話をしろと言われ、夕べから眠れませんでした。
私はね、何が嫌いってもう、こういうみんなの前に出てきて、話しするのがいちばん嫌い。いちばん苦手なんだ。
だけど、20周年記念だから、お前がいちばん古いんだからと。しかたなく遮二無二出てきました。
15分間辛抱して聴いてもらいたいと思います。
私は、18歳の時から少林寺拳法を始めました。18から少林寺拳法始めて、今年73歳。
数えてみたら55年。55年って長いよな。たいしたもんだと自分で自分を褒めてやった。
「お前は、たいした男だって」(笑)、みんなが生まれる前からだ。いや、みんなはもちろん、
お父さんお母さんも生まれていなかったんじゃないかな?55過ぎた人はいないでしょう?
よく昔は、「お前キチガイみたいだなぁ」って言われた。そのぐらい一生懸命やってた。
「そんなに少林寺拳法って面白いのか?そんなに好きだったのか…」好きだけじゃない、
止むに止まれず55年もやってきたんだ。何故だ?
私は昔から…今もそうだけれども、イケメンで(笑)、18の時に彼女と町でデートしてた。
そしたら町の不良少年に絡まれ、クチャクチャに叩かれた事がある。悔しくて悔しくて、恥ずかしくて、
その晩は一晩中布団かぶって泣いていた。その時「よ〜し!」と思ったんだ。
「金も、地位もいらん。絶対強い男になるんだ」と。「強い男になって、倍返しだ〜!」(爆笑)
倍返しどころじゃない、100倍返し、1000倍返しだと思ったな。そして、あちこち探して少林寺拳法に巡り会った。
突きがある、蹴りがある、投げ技がある、逆技もある。みんなグローブはめて乱捕りをバンバンやっていた。
「これしかない!!」と思って、その日にすぐ入門させてもらったんだ。
あれから40年!(綾小路きみまろ風) あ…こりゃきみまろ先生だな(笑)
あれから55年。私はどんなことがあっても、サボりで練習を休んだことはない。
初めは北海道で練習していた。北海道の冬は寒い。マイナス20℃〜25℃で吹雪もブゥワ〜!っとくる。
そんな中を毎日歩いて体育館に通ったんだよ。体育館に行ったら、バケツに水が汲んであるんだが、しっかり凍ってる。
氷を割って、雑巾絞って、体育館を何十回も往復した。「汗かくまでやれ!」って言われてね。
身体は暖かくなったけど手が動かなくなる。指が曲がらず拳が握れない。それを一本一本曲げて練習したもんだ。
大概の人はやめていったな。私は1000倍返しだと思ってるから(笑)、どんなに辛くても休まずがんばった。
おかげで先生にもよく可愛がられ、あちこちの大会にも連れて行ってもらい、いい成績を上げたもんだよ。
北海道で4年間過ごした後豊田市へ来た。トヨタ自動車に入社し働くことになったんだ。
当時、豊田市には少林寺拳法なんか全然無い。どこにもない。愛知県にも無かったな。
「よし、ここで少林寺拳法やろう!、俺がはじめよう!」って思い、友達一人一人に「来んか、やってみんか」と
寮の部屋でやったり、食堂の隅っこ行ってやったり。徐々に5人、10人、20人って増えていった。
そこで「トヨタの拳法部にしてください」って本社にお願いに行った。何回も通うことでしてもらえた。
少林寺拳法の本部にも電話した。「支部長にしてください」って。そうしたら宗道臣先生から「いっぺん本部に来ないか」と言われ、
「はい、行きます!」と、会社休んで四国に宗道臣先生を訪ねて行ったよ。
宗道臣先生はいろんなことを話してくれた。さっきの喧嘩の話もした。そしたら宗道臣先生に訊かれたんだ。
「その男は、背が2mもあったのか? 腕が3本も4本もあったのか? そんなゴツイ男だったのか」って。「いえ、普通の男です」
と答えた瞬間、宗道臣先生はズバリ言われたね「それじゃ、お前が何もしなかっただけなんだろう」…そりゃそうだ、震えてただけだから。
「人間はなぁ、家柄とか、学歴とか、そんなことは関係ないんだ」「一生懸命やれば何でもできるんだ」ということを、
その時懇々と教えてもらった。私は「そうか、よ〜し!」と思って、より一層がんばるようになったんだ。
トヨタ自動車には昼夜二交代の夜勤があった。夏の夜勤なんか辛かったな。金が無いから当然家にクーラーなんか無い。
朝帰ってきて寝るんだが、暑くて暑くて…部屋の中が40℃ぐらいになるんだぞ。2〜3時間寝たら汗びっしょりかいて、
布団もベタベタ濡れて目が覚める。そうなるともう眠れない。連日2〜3時間の睡眠でロクなもん食わなくて、練習行って会社行って、
働いて帰ってくる。そういう日がずっと続いた。でも負けるわけにはいかない。がんばってるうちに人数も増え、有段者も増えた。
「よし、お前は上郷工場でやらんか」「お前は高岡工場」「お前は堤工場で」って、工場毎に助教を配置し全工場にクラブを作った。
トヨタ学園でもやった。トヨタの体育館で発表会もしたな。私は毎日各工場を回って指導に明け暮れた。おかげで連日帰宅は深夜だったよ。
トヨタ自動車での形が整ってきた頃、豊田市の体育協会にお願いに行った。「体育協会に入れてください」って。
これも何回もお願いに行って入らせてもらった。次には「町で子ども達にも少林寺拳法を教えたい」と思い立ち、
ある日、不動産屋に電話して自宅に来てもらったんだ。で、「この家、どんだけで売れるかね?」…ウチの女房はビックリしたね。
「どうしたの?」「家売って道場建てるんだ」って言ったら「やめてくれ!」と泣かれたな。
だけど気持ちは変わらない。この件では女房を困らせたし苦労もさせた。隣近所の奥さん連中から言われたそうだよ。
「あんたも苦労するねぇ。しょうもない男と結婚して」(苦笑)確かにそうだ。家売って、今の高上に土地買って道場建てたはいいが、
借金がいっぱい。身体よりも生活の方が苦しかった。働いても働いても全部借金の返済に消えていった。金は一銭も残らなかった。
女房は近くのパン屋へ行ってパンの屑をもらったりもしていたよ。毎日カップラーメンの時もあったな。私自身が我慢するのはいいんだが、
女房子どもに苦労かけるのは辛かった。
だけど、挫けるわけにはいかない。“苦しい時にこそ、ここでファイトを燃やさなきゃいかん!”と思って、ますます勉強した。
毎日本屋にも通ったし、技の勉強も一生懸命した。その結果が出たというか、道場も100人、150人がずっと続いていたよ。
大会も、西三河でもどこでも全部総合優勝した。毎年愛知県代表になって全国大会も行っていた。さらに増やそうと場所を探して、
五ヶ丘、梅坪、岡崎にも行ってね、門下生が四段五段になったら次々支部長にした。自分がやってよかったと思う人生だから、
弟子達にも喜びを与えなきゃいかんとの思いからがんばった。こうして豊田市の少林寺拳法は発展してきたんだよ。
宗道臣先生に言われた通り、やればできるんだな。私は学校も出ていないし、貧乏だけれども、がんばったら何とかなってきたよ。
でもな、ウチもいっぱい入門してくるが、半年か一年くらいで大概やめてしまう。「部活が忙しくなった」「来年から中学校で勉強が忙しくなる」
「成績が落ちた」などと理由を述べる。少林寺拳法をやって本当に勉強が駄目になるのか?…一週間は何時間だと思う?一週間は168時間あるんだぞ。
少林寺拳法の時間は、その内一日1時間半。二日やっても3時間。168時間のうちの3時間。まだ残りが165時間ある。
これでも少林寺拳法のせいで学力が落ちると言えるのか。拳法のせいなんかじゃない。自分が一生懸命やらないからだ(苦笑)
昔あるお寺で、ひとりの修行僧が廊下の雑巾がけをやっていた。雑巾がけしながら「人生って何だろう」と考えていた。
そこへ師匠が通りがかり、これ幸いと尋ねてみたんだそうだ。「師匠、人生って何ですか?」、すると師匠は「こら、バカモン! 雑巾がけをしっかりやらんか」
って叱ってス〜っと行っちゃった。しかたなく「何だ、教えてくれてもいいじゃないか」ってブツブツいいながら再び雑巾がけを続けた。
雑巾がけを終わってから、やっぱりもう一度しっかり訊こうって、また師匠のところへ行ったそうなんだが、はたして師匠がまた怒った。
「こら!バカモン!! さっき教えたじゃないか。しっかり勉強せい!!」って。修行僧ははたと考えた。「さっき教えた?いったい何を教えてくれたのか」と。
そこでふと気づいたんだ。「ああ、そうか!」…みんなは気がついたかな?つかんだろうなぁ(笑)その修行僧はこう思ったそうだよ。
「雑巾がけする時は、雑巾がけを一生懸命やる。人生とか、晩ご飯とか、違うことを考えながら、うわの空で雑巾がけしちゃいかんのだ」ってな。
そういうことを師匠は教えてくれたって気がついたんだよ。
みんなはどうだ?学校へ行っても、先生の話を聴かず、座ってるだけでは勉強できるようになんかならないぞ。
道場へ練習にきても、一生懸命やらなけりゃ、決して上手くはならない。何でも一生懸命やる。その時その時やるべきことを命がけでやる。
それではじめて誰でもできるようになる。私も長い間少林寺拳法をやってきてわかった。宗道臣先生の教えが今頃やっとわかってきたんだ。
やらない先にあきらめず、何事も一生懸命やってみる。これが一番大切なんだな。
この間、ウチの女房が孫に訊いたんだって。「7年したらね、東京でもオリンピックがあるんだよ。お前もがんばって出ないか」って。
そうしたら「あ、無理無理、駄目駄目」って笑ってたらしいが(苦笑)やらない先から「いや駄目、無理無理」…そういうのはよくないな。
「他人がやれることなら、俺にもできるはず」そういう考えが大事じゃないか? 私はそういう気持ちでがんばってきた。強い男にならなきゃいかんと思い、
がんばった。そして、何とかなったよ。みんなもそういう意味では、これから勉強も少林寺拳法もがんばって欲しいと思う。
そして立派な人間になって、自分の為にも、ちょっとぐらいは他人の為にも役立つ人間に、是非なってもらいたいと思う。
今、世界のあちこちで戦争があって、罪の無い年寄りとか子どもがいっぱい殺されている。病院に行ってみろ。病気で苦しんでいる人がいっぱいいる。
お金が無くて貧乏で、腹減らして何にも食えなくて、そのまま死んでゆく人がいっぱいいるんだぞ。学校でもいじめがいっぱいあるんじゃないか。
これはなかなか無くならないな。楽しい世の中を作りたいとは思わないか。みんながそれをできるんだよ。そしてやらなきゃならん。
「そのうち誰かやるだろう」てな事じゃ駄目だ。「よし、俺やろう!」そういう気持ちを持って、がんばることが大切だと思う。
やればできる。大きな希望を持ち続ける。途中であきらめない。やり通せば必ずできるんだ。
やる気さえあればできる。私は長年頑張ってきた結果、確信している。だからしつこく言うけれど「俺なんか駄目だ」なんて思うなよ。
一生懸命頑張れば何でもできるんだということを、しっかり頭に置いて修行してもらいたいと思う。
今から、大会があるけれども、これも是非頑張って欲しいと思う。こちらから観て、私の話を聴いているのは半分だな。
半分は寝てるよ(笑)半分は大会の事考えていないか? 今は私の話を聴く時間だ。その時その時を一生懸命生きる。
今日からわかって頑張って欲しいと思う。
時間が来ましたので終わりにしたいと思います。ありがとうございました。
【 山下咲雄氏 プロフィール 】
豊田市における少林寺拳法の普及に尽力。
豊田市少林寺拳法協会の原点である豊田市少林寺拳法連合会を発足し、その発展の礎を築いた。
現在は協会常任理事、愛知高上道院 道院長として後進の指導にあたられている。
<略歴>
・1940年 鹿児島県に生まれる
・1958年 北海道で少林寺拳法を始める
・1963年 トヨタ自動車少林寺拳法部 設立
・1970年 豊田市少林寺拳法連合会 発足
・1991年 豊田市少林寺拳法協会 発足(初代 理事長)
・1992年 第1回 豊田市民大会 開催
<当日の様子>